豊かな時代の日本文学と死生観

2007/08/23 [木] 00:01 このエントリーを含むはてなブックマーク
昔書いた蔵出しテキストです。
「豊かな時代の日本文学と死生観」

2003年度GDP約5万ドル、一人当たりGNI35,620ドル。日本は戦後、1970年代高度経済成長を遂げ、現在世GDP第二位の経済大国に「成長」した。戦後から現在に至る、「物質的」「経済的」には豊かな日本社会における死生観について、戦前までのそれと比較しながら、考えてみたいと思う。

戦後から最近までの時代、日本社会全体が一丸となって、「経済成長」あるいは物質的な富の拡大というゴールに向かってまい進してきた。特に戦争の苦い経験があったために、日本人は「政治」や「宗教」について語るのは極力さけ、とにかく経済成長に向かってまっしぐらに突き進む、という状況であった。特に男性は「会社人間」になって企業ひいては日本経済に貢献しようとしたし、官庁や経済界、各業界や行政、世の中の制度等々の全体が、この「経済成長」という単独の目標に向かって強力に編成された。もちろん、教育あるいは学校も、こうした「経済成長に寄与する人間」を養成するべく一元的に方向づけられた。戦後の日本において、死生観ということ、とりわけ「死」というテーマが視野からはずされたことと、いま述べたこととは当然深く結びついていると思う。「物質的な富の拡大」の追及に専念するということであるので、それは言い換えれば「生」あるいはその拡大ということにもっぱら関心を向け、その果てにある死については考えない、というスタンスである。私は、戦後の日本は、すべてが「世俗化」され、つまり物質的あるいは現世的なものに関心が集中した社会ではないかと思う。


日本には昔から伝統として死生観という大袈裟なものではないとしても、それに類するものが、寺院、寺小屋などで教えられたものと思う。しかしながら現在では学校教育や家庭の中でも死生観といったことが正面から話題にされたことが非常に少ない気がする。現在日本では生きることよりも死ぬことのほうが難しいように思われる。かつての時代は、よくも悪くも、日々の生活を立てていくこと自体が大変な苦労を伴うものだったが、現在のような物質的に恵まれた時代は、(日々の食糧といったことをとっても)『生きていく』ことがあまりにも容易に手に入り、生きていることのリアリテイというか、実感が得にくい時代になっているといえよう。


戦前までの日本文学にみられる死生観に関係する部分を以下に記す。
西行(1180〜1190) 歌人
    願はくは 花のしたにて 春死なん
                 そのきさらぎの 望月のころ


正岡子規 (1867〜1902)
「余は、今迄禅宗の悟りということを誤解していた。悟りということは、如何なる場合にも平気で死ねる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は、如何なる場合にも平気きてで生居ることであった。」(『病床六尺』)

室生犀星(1889〜1962) 詩人・小説家
人間の永い生涯には妻が先に死んでくれた方がいいと、ちょっとでも考えない人があっただろうか、その夫が若し先に亡くなったら、ああしよう、こうしようと死後の策を考えない婦人があっただろうか、折々職しっかりした眼附と身構えを持って見合せた眼こそは、たしかに今まで生きて来た善後策を講じかかる、のっぴきならない眼附だったのである。どちらかが生きのこった時には、先ず後始末をしなければならないのである。『生きたものを』


いわゆる「日本人の死生観」には、おおざっぱに言うと、仏教の影響を受けた「人間は死によって肉体は消滅するが、精神は霊魂として存在する」とする死生観と、儒教の影響を受けた「人間は死後も肉体・精神ともに存在する」とする死生観の二種類ある。しかしそれらは微妙にミックスされ、日本社会には死生観の複数性が見られる。こうしたところにも日本文化の雑種性が出ているのかもしれない。


それでは現代文学で死生観が見られる部分を以下に引用する。
高見順(1907〜1965) 作家
     電車の窓の外は
     光りにみち
     喜びにみち
     いきいきといきづいている
     この世ともうお別れかと思うと
     見なれた景色が
     急に新鮮に見えてきた       『死の淵より


瀬戸内晴美、寂聴(1922〜) 
いずれは逃げられない私の死に様は、果してどの様なものか、どんな変死にせよ、やはりあんまり人の目に不様でない死に様を願うのは、まだ私がしやれ気のある若さの証拠であるかもしれない。『死に様』 より


「この頃、阿紗はふっと気づいた時、身ほとりに、死者の魂のぬくもりを感じるようになっている。それは気配と呼ぶのがふさわしいほのかさだけれど、たしかに存在するものなのだ」「その日の洗濯物をどんなに夜遅くなっても貯めないように洗ってしまうのも、もし明日朝、生きていなければ恥ずかしいと思うからだった」
瀬戸内寂聴『いよよ華やぐ』より

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