『ゲーム的リアリズムの誕生』東浩紀
新潮10月号の「キャラクターズ」東浩紀+桜坂洋を読んだ。
文壇に喧嘩売ってるような内容なんだけど、背表紙で隣に佐伯一麦+柳美里「私・小説・世界の輪郭」と並んでるのが笑える。ライトノベル作家が賞取ったっつってのも、私小説で性やら死を描かなきゃもらえねーってことかよ。って文壇批判とみられかねない部分もあるので。結局ライトノベルの文学的可能性には目を向けられないってことかという絶望。ゲーム的リアリズムっても誰も理解してくれないのかと。そんな狭い想像力だけしか認めないのかと。そういう嘆きが悲しくも笑えます。
* * *
『ゲーム的リアリズムの誕生』の第1章「理論」をものすごく省略してまとめてみた。ポストモダン(大きな物語の衰退)なデータベース(アニメや漫画、サブカルの中で培われたキャラクターの類型の蓄積、例えば魔女っ子とか眼鏡っ娘とか)消費の世界において
(1)物語はどのようなかたちで生き残るのか
(2)そのような新しい物語はどのような可能性があるのかという問いが提示されている。
最初の答えは「人工環境の文学として生き残る」というもの。そして2つめのその人工環境の文学の可能性とは、近代の私小説のような自然主義的な「透明な」文体とは異なる、「不透明な」文体を可能にするというもの。
という箇所が一番すっきりまとまっているかな。丁寧に丁寧に説明しようと書かれているのちゃんとまとめると長くなるので今回はやめときます。余裕があればいつか書くかもしれない。
要するに現在文学には2つの流れがあって、宮部みゆきや村上春樹などの現実を描く「自然主義的リアリズム」という文学的想像力の環境で生産され消費される小説群、谷川流などライトノベルの、人口環境・キャラクターを描く「まんが・アニメ的リアリズム」の想像力の環境で生産され、消費される小説群がある。
というわけだ。で著者は文壇の文学とは認められてない、後者のライトノベル的なものの文学的価値を一生懸命説明しているんだけど、それが報われなかったという嘆きが「キャラクターズ」で出てくる。
これは↓この事でしょうね。
桜庭一樹さんが第60回日本推理作家協会賞を受賞!
佐藤友哉三島賞受賞
* * *
「キャラクターズ」は批評のキャラクター小説化を試みた東浩紀+桜坂洋の合作。批評はいまや批評家の私的な価値観が出してる点で小説よりもよっぽど私小説的だという。でそんな批評なんてキャラクター小説と同じくらい虚構的なんだよと証明する、佐藤や桜庭の受賞が象徴する状況、ラノベだろうとSFだろうと「文学」と認められるには「私」の話を書かなきゃいかんという退屈な状況に対するカウンターパンチなのだ。果たしてそれが成功したか否か。というより文学界から反応があるのか。無いような気もするが、文学好きにはめっぽう面白い
ゴシップものとしても楽しめる。大森望やら唐沢俊一やら評論家の名前が出てくる出てくる。(キャラとしてですが)ただこれは「私小説に見える」というメタな構造を持っている小説なので、ただの暴露物ではありません。
ゲーム的リアリズムについては、時間が許せばまたいつかちゃんと書きたい。キャラクターズについてもまだ考え中な部分がある。
『ゲーム的リアリズムの誕生』2章ではループ物の重要な作品として「ひぐらしがなく頃に」が出てくる。一度プレイしてみたいけど、アニメも怖くて見られなかったびびりなので。話としては、2章の作品論でネタバレしてるので知っているが、感動だというプレイヤー体験も是非してみたいものです。
参考リンク: キャラクターズ 感想リンク集(読丸電視行さん)
「キャラクターズ」の後で(仮想算術の世界さん)
文壇に喧嘩売ってるような内容なんだけど、背表紙で隣に佐伯一麦+柳美里「私・小説・世界の輪郭」と並んでるのが笑える。ライトノベル作家が賞取ったっつってのも、私小説で性やら死を描かなきゃもらえねーってことかよ。って文壇批判とみられかねない部分もあるので。結局ライトノベルの文学的可能性には目を向けられないってことかという絶望。ゲーム的リアリズムっても誰も理解してくれないのかと。そんな狭い想像力だけしか認めないのかと。そういう嘆きが悲しくも笑えます。
* * *
『ゲーム的リアリズムの誕生』の第1章「理論」をものすごく省略してまとめてみた。ポストモダン(大きな物語の衰退)なデータベース(アニメや漫画、サブカルの中で培われたキャラクターの類型の蓄積、例えば魔女っ子とか眼鏡っ娘とか)消費の世界において
(1)物語はどのようなかたちで生き残るのか
(2)そのような新しい物語はどのような可能性があるのかという問いが提示されている。
最初の答えは「人工環境の文学として生き残る」というもの。そして2つめのその人工環境の文学の可能性とは、近代の私小説のような自然主義的な「透明な」文体とは異なる、「不透明な」文体を可能にするというもの。
日本文学は約100年前言文一致を取り入れ自然主義を西洋から輸入し、60年前にそれをマンガに輸出し、30年前にその理想を改めて逆輸出することで、キャラクター小説を生み出した。まんが・アニメ的リアリズムにはその理想が屈折して畳み込まれている。
という箇所が一番すっきりまとまっているかな。丁寧に丁寧に説明しようと書かれているのちゃんとまとめると長くなるので今回はやめときます。余裕があればいつか書くかもしれない。
要するに現在文学には2つの流れがあって、宮部みゆきや村上春樹などの現実を描く「自然主義的リアリズム」という文学的想像力の環境で生産され消費される小説群、谷川流などライトノベルの、人口環境・キャラクターを描く「まんが・アニメ的リアリズム」の想像力の環境で生産され、消費される小説群がある。
自然主義的リアリズムの市場で『東京タワー』が売れ、芥川賞や直木賞が話題になっているときに、まんが・アニメ的リアリズムの市場では、まったく異なった原理と価値観に基づいて「涼宮ハルヒ」シリーズが何百万部も売れている。
というわけだ。で著者は文壇の文学とは認められてない、後者のライトノベル的なものの文学的価値を一生懸命説明しているんだけど、それが報われなかったという嘆きが「キャラクターズ」で出てくる。
私小説化したライトノベル作家が相次いで文学賞を受賞した
これは↓この事でしょうね。
桜庭一樹さんが第60回日本推理作家協会賞を受賞!
佐藤友哉三島賞受賞
* * *
「キャラクターズ」は批評のキャラクター小説化を試みた東浩紀+桜坂洋の合作。批評はいまや批評家の私的な価値観が出してる点で小説よりもよっぽど私小説的だという。でそんな批評なんてキャラクター小説と同じくらい虚構的なんだよと証明する、佐藤や桜庭の受賞が象徴する状況、ラノベだろうとSFだろうと「文学」と認められるには「私」の話を書かなきゃいかんという退屈な状況に対するカウンターパンチなのだ。果たしてそれが成功したか否か。というより文学界から反応があるのか。無いような気もするが、文学好きにはめっぽう面白い
ゴシップものとしても楽しめる。大森望やら唐沢俊一やら評論家の名前が出てくる出てくる。(キャラとしてですが)ただこれは「私小説に見える」というメタな構造を持っている小説なので、ただの暴露物ではありません。
ゲーム的リアリズムについては、時間が許せばまたいつかちゃんと書きたい。キャラクターズについてもまだ考え中な部分がある。
『ゲーム的リアリズムの誕生』2章ではループ物の重要な作品として「ひぐらしがなく頃に」が出てくる。一度プレイしてみたいけど、アニメも怖くて見られなかったびびりなので。話としては、2章の作品論でネタバレしてるので知っているが、感動だというプレイヤー体験も是非してみたいものです。
参考リンク: キャラクターズ 感想リンク集(読丸電視行さん)
「キャラクターズ」の後で(仮想算術の世界さん)












