
以下の文章は数年前私が書いた、ある哲学のレポートである。
HDに眠っていたテキストのお蔵だし第一弾。これからちょこちょこ推敲していく、予定。
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プラトンのイデア論を、自分なりに、簡単にまとめると次のようになる。われわれが感覚によって認知できる個物は、感覚によって認知できないイデアの影に過ぎない。例えば、すべての「美しいもの」(個物)は「美しさそのもの」(イデア)を分有した結果美しいのであって、イデアこそが原因であり、真実在なのである。個物という影の向こうにある真の存在である、イデアを欲し、憧れる気持ちが恋(エロース)である。
またイデア論は「洞窟の比喩」によっても説明される。「洞窟の比喩」は、以下のように述べられる。即ち、〈善〉とは何であるかということを直接的に説明することはできず、「その子供にあたると思われるもので、それに最もよく似ているように見えるもの」を「洞窟の比喩」で示しているのである。
洞窟の中で囚人が手足を縛られ、洞窟の奥の方しか見えない状態にある。囚人が見えるものは、囚人の背後、即ち洞窟の入口の方から火によって照らされた、さまざまな器物の動く影に過ぎない。そのような状態に置かれた囚人は、一生涯そのままの状態であれば、その器物の影だけを真実のものと認めることになるだろう。
あるとき囚人が縛めを解かれ、火の光の方を見るように強制されたとする。彼は以前見ていたものよりも実物に近づいて、実在性のあるものの方向へ向かっている。しかし彼は困惑して、これまで見ていた「影」の方に真実性があると考えるだろうという。また火の光のある方を見ることを強制されれば、それは苦痛であり、その実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができない。そして彼は目が痛くなり、向き返って、自分が楽に見ることのできる方へ逃げようとするだろう。
はじめはこのような反応を示すだろうが、洞窟の外へ出て上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要である。影を見る次は水に写る影を、そしてその後その実物を見ればよい。そしてその後で天空の方へと目を移すことになるが、それにはまず、夜に星や月の光を見るほうが、昼間太陽とその光を見るよりも楽である。そして太陽についていろいろな推論をするようになる。
このように、徐々に上へ登って行って上方の事物を観ることは、魂が思惟によって知られる世界へと上昇していくことである、とプラトンは言う。そしてこの知的世界において最後にかろうじて見てとられるものとして、〈善〉のイデアがある。一旦これが見てとられたならば、この〈善〉の実相こそはあらゆるものにとって、すべて正しく美しいものを生み出す原因であるという結論へ、考えが至らなければならないという。
「プラトニック・ラブ」という言葉をよく耳にする。プラトン的愛という意味である。それはしばしば、肉体的愛から高められた精神的愛を意味するものとされるが、そうなのだろうか。高められるとか、精神的という語の語義を調べるだけでは「プラトン的愛」の本当の内容をつかむことは出来ない気がする。プラトンは愛についてどう語ったのだろうか。実は、これこそそこで「プラトニック・ラブ」を論じながら、プラトンのイデア論について考えてみる。
まず、愛とか恋愛(エロス)というとき、それは性や性欲だけについていうのではない。これは注意しなければならない。もっと広く「美」について、さらには「善」「真」を求める、あたかも故郷を求めるような、魂の向かい方が愛なのである。
魂は肉体と絶縁して、できうる限り自己自身の機能を発揮しなくてはならぬ。これこそがまさに「プラトニック・ラブ」の魂の働きなのである。
『饗宴』においてソクラテスの行なうエロス論が、いわゆる「プラトニック・ラブ」という言葉の出所になっている。これによると、エロスには2種類があり(エロスと一緒にいる神=アプロディテが2種類あるから)ウラニア(天上の)・アプロディテとパンデモス(万人向けの)・アプロディテの二つである。前者は、ウラノスの子。後者は、ゼウスとディオネの子。前者のみが賛美に値する。パンデモス・アプロディテに属するエロスの特徴は
@少年だけでなく、女性を愛する。A相手の魂より、肉体を愛する。Bできるだけ愚かなものを愛する、である。永続性のない「肉体」を愛するのは、魂を愛することよりも美しくない。ウラニア・アプロディテに属するエロスは、「国家にとっても個人にとっても極めて価値多きものである。」なぜなら、「恋をする者も、恋を寄せられるほうのものも、このエロスの力に動かされて徳をめざし、すすんで自分を深く配慮反省するように仕向けられるからである。」「人間は、もとの姿を二つに断ち切られたので、みな、自分の半身を求めて一体となった。」エロスとは、「人間をかつての本然の姿へと結合するものであり、二つの半身を一体にして、人間本然の姿になおそうとするものなのである
イデアとプシュケー、縮めれば、プラトンの哲学はこの二つの言葉に集約される。それを「知」と「魂」とも、「理念」と「精神」と言ってもよいが、イデアというのは数そのもの、図そのもの、形そのものでもあった。「大」とか「小」というときの「大」ということ、それ自体がイデアなのである。イデアは抽象そのものであって、また同時に具体そのものなのだ。一方、プシュケーには3段階があるだろうとプラトンは言った。理知な魂、気概な魂、欲望な魂の3つである。だからプラトンにとっては、プシュケーも純粋無雑なものなのではなくて、やはり抽象であって具体そのものなのだ。
なぜイデアやプシュケーのような、後世の人間のほうがかえってピュアーに受け取ろうとした概念を、プラトンは図形や段階という具体的な足枷をつけて論じようとしたのだろうか。それは、プラトンは「思惑」(ドクサ)というものを知っていたからだ。
思惑というものは、たえず自分が首尾一貫しているとか、ピュアーであると思いたがるもの。あるいは、逆につねに自身を迷わせている悪魔のようなものと思いたがるもの。いずれも役立たない。
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