ケータイ小説のリアリティ /恋空のソーシャルなリアル感
リアルということ
リアリティについて少し考えてみる。
恋空の文春の記事(私はケータイ小説を否定も肯定もしません。私は創作にパクリがあるのは、今の時代仕方ないと思います。完全なオリジナルのものなんてありえない。だからパクリ云々はどうでもいいのです。)について書いたのだけれど、それについて恋空愛読者の方からコメントを戴きました。それで少し思うところがあり、このエントリを書いています。
彼女たちにとっては、あの物語はリアルなものとして受け入れられている。これは魔法iランドなど携帯小説の投稿サイトで実話とうたって発表されたということもあるでしょう。(現在は創作だと明記されているけれど)
創作物におけるリアルとは何か。この描写はリアルだと感じる、そのリアリティとは。小説に限って考えてみる。
リアリティについて少し考えてみる。
恋空の文春の記事(私はケータイ小説を否定も肯定もしません。私は創作にパクリがあるのは、今の時代仕方ないと思います。完全なオリジナルのものなんてありえない。だからパクリ云々はどうでもいいのです。)について書いたのだけれど、それについて恋空愛読者の方からコメントを戴きました。それで少し思うところがあり、このエントリを書いています。
彼女たちにとっては、あの物語はリアルなものとして受け入れられている。これは魔法iランドなど携帯小説の投稿サイトで実話とうたって発表されたということもあるでしょう。(現在は創作だと明記されているけれど)
創作物におけるリアルとは何か。この描写はリアルだと感じる、そのリアリティとは。小説に限って考えてみる。
小説は言ってみれば、言葉の羅列だ。それがある意味を持って組み合わさって表現となす。リアルと感じるということは、読者がその言葉の羅列から喚起するイメージと現実(読者にとっての現実)が近い、即しているということなのだろうと思う。
ここでいう、現実とは読者ひとりひとりの頭の中で繰り広げられる現実を指す。当然ながら、現実は一人一人異なる、不確かなものだ。物理的世界から得られた情報を独自のフィルターを通してモデル化された内的世界と言った方がいいかもしれない。
それが異なるのだから、各人が何をリアルと感じるかは異なるのは当たり前なんだろうか。
つまり、『恋空』をリアルに感じられる女の子達と、リアルには感じられない人とでは、その「現実」が全く異なるということなんだろうか。うーん、そらそうだろうって感じで、なんかまだ納得いかない。
ではその「現実」はどう違うのか。ケータイ小説では、レイプ、死、妊娠、というのがお約束となっています。これがリアルだということは、ケータイ小説読者の多くを占める女子中高生は大変な日常を送っているということになります。が、実際には彼女たちの多くは日常は平和なものだと思います。あるいは単調で平凡だと。実際にそういう被害にあったり、妊娠する方もいますが、割合から言ってやはり希でしょう。
自分の日常とは異なるものを現実、リアリティがあると認識する鍵は、女の子達の噂なのではと考えました。
そういう、妊娠といった刺激的なものは噂になる。「どこそこの高校に、妊娠しちゃった子がいるんだって」と聞くと、ああそういう子が同い年にいるんだと。そうやって女の子達の噂によってソーシャルに形成されたものが「リアル」となる。
私も学生時代そういう話は散々聞きました。またメディアによる情報もそれに加わるから、もっとスキャンダラスな「女子高生の日常」が出来上がる。
なんか援助交際問題とかぶるなあ。あの頃も実際援助交際してる子はいたけれど、圧倒的にしていない子の方が多かった訳で。
ケータイ小説読者の子は大人しい普通の子が大半だと思います。何も自分がそういう体験を実際にしているからではなく、彼女たちにとってのソーシャルな「リアル」が描かれているから共感する。つまり裏を返せば、日常が貧困だと言えるのかもしれない。日常が退屈だからこそ、スキャンダラスで刺激的な噂が生まれる。
でもこれは昔からずっとそう。日常は退屈だった。
その単調さに耐えるために、人は物語を欲するのだろう。
ケータイ小説のソーシャルメディアとしての側面を考えると、携帯電話はソーシャルな「リアル」を描くにはうってつけなツールなのかもしれない。(ただ、みんな実際ケータイで書いてるんだろうか?あんな小さい画面で長文を書くのは疲れそう。)
関連エントリ:風味絶佳な日々―読書日記― - ケータイ小説に見る関係性のない物語 共感の脊髄反射化
ここでいう、現実とは読者ひとりひとりの頭の中で繰り広げられる現実を指す。当然ながら、現実は一人一人異なる、不確かなものだ。物理的世界から得られた情報を独自のフィルターを通してモデル化された内的世界と言った方がいいかもしれない。
それが異なるのだから、各人が何をリアルと感じるかは異なるのは当たり前なんだろうか。
つまり、『恋空』をリアルに感じられる女の子達と、リアルには感じられない人とでは、その「現実」が全く異なるということなんだろうか。うーん、そらそうだろうって感じで、なんかまだ納得いかない。
ではその「現実」はどう違うのか。ケータイ小説では、レイプ、死、妊娠、というのがお約束となっています。これがリアルだということは、ケータイ小説読者の多くを占める女子中高生は大変な日常を送っているということになります。が、実際には彼女たちの多くは日常は平和なものだと思います。あるいは単調で平凡だと。実際にそういう被害にあったり、妊娠する方もいますが、割合から言ってやはり希でしょう。
自分の日常とは異なるものを現実、リアリティがあると認識する鍵は、女の子達の噂なのではと考えました。
そういう、妊娠といった刺激的なものは噂になる。「どこそこの高校に、妊娠しちゃった子がいるんだって」と聞くと、ああそういう子が同い年にいるんだと。そうやって女の子達の噂によってソーシャルに形成されたものが「リアル」となる。
私も学生時代そういう話は散々聞きました。またメディアによる情報もそれに加わるから、もっとスキャンダラスな「女子高生の日常」が出来上がる。
なんか援助交際問題とかぶるなあ。あの頃も実際援助交際してる子はいたけれど、圧倒的にしていない子の方が多かった訳で。
ケータイ小説読者の子は大人しい普通の子が大半だと思います。何も自分がそういう体験を実際にしているからではなく、彼女たちにとってのソーシャルな「リアル」が描かれているから共感する。つまり裏を返せば、日常が貧困だと言えるのかもしれない。日常が退屈だからこそ、スキャンダラスで刺激的な噂が生まれる。
でもこれは昔からずっとそう。日常は退屈だった。
その単調さに耐えるために、人は物語を欲するのだろう。
ケータイ小説のソーシャルメディアとしての側面を考えると、携帯電話はソーシャルな「リアル」を描くにはうってつけなツールなのかもしれない。(ただ、みんな実際ケータイで書いてるんだろうか?あんな小さい画面で長文を書くのは疲れそう。)
関連エントリ:風味絶佳な日々―読書日記― - ケータイ小説に見る関係性のない物語 共感の脊髄反射化













