ブログの自己保存機能/再読と記述の追加
「ああ、簡単に言えば、忘れないためだよ。言葉で思考しておけば、思考の本質にまあまあ近い概念が、言葉として記憶される。言葉というのはデジタル信号だから、時間経過による劣化が比較的少ない。もともと、伝達するために生まれた効率的手段であって、まあ、つまり、それが記号だ」
今はもうない―SWITCH BACK (講談社文庫)森博嗣新年の抱負代りに、森先生の格言でライフハック(笑)
ブログを書くことで、少しでも客観的になり、自分の考えていることに「まあまあ近い」何かが残ることを信じている。
自己満足な備忘録で構わない。日記であれ、何であれ、ものを書くという行為はちょっと恥ずかしいことだと思っている。ある意味、排泄行為、オナニープレイ入ってる?でも敢えて恥ずかしいことをやる、隠しておきたいものをえぐり出すから面白い。
ここで言う日記とは、日々の出来事を綴ったものではなく、極めて抽象的な思索の記録と呼ぶべきものであるが、これは大変示唆に富んでいる文章だと思ったので引用した。
また、ブログ=日記ではないのだけれど、この場合ブログにも当てはまる部分があると思う。つまり、「再読と記述の追加」という要素だ。ブログで特徴的なのは過去記事を読み返し、充実させることが出来る点。ブログは流れていくもので、過去記事、アーカイブをわざわざ見る人はあまりいないが、これこそまさに自己目的化、自分の為だけにでもなればいいのだ。そしてその情報が、検索で来た誰かに役立つ情報になるかもしれない。
ブログ人口は落ち着いては来ているが、それでもこうして日々多くの人々が書き、更新している。「近代以降の社会に生きるわれわれに宿命的なフェティシズム」の表出の一形態なのかもしれない。
日記はただつけるだけでは十分ではない。それを繰り返し読み、かつ意見を追加してゆかなければならないのだ。再読と記述の追加とは、日記を書くという行為の何か本質的な部分につながっている。
(中略)
自己目的化という点では共通している蓄財や収集癖も、依然として事物とつながりを残している点で、日記の純粋さには及ばない。〜これにたいして、常に自己にまつわる記憶を喚起し、それを想像力に結びつけて、存在の感覚を確認すること―これこそが、パウェーゼのような日記作家の、自分の日記を再読し新たな記述を追加するさいの、一見したところ苦渋に満ちてはいるが、それでもほかの何ものにも換えがたい楽しみであったにちがいない。
都市の憂鬱―感情の社会学のために富永茂樹(中略)
自己目的化という点では共通している蓄財や収集癖も、依然として事物とつながりを残している点で、日記の純粋さには及ばない。〜これにたいして、常に自己にまつわる記憶を喚起し、それを想像力に結びつけて、存在の感覚を確認すること―これこそが、パウェーゼのような日記作家の、自分の日記を再読し新たな記述を追加するさいの、一見したところ苦渋に満ちてはいるが、それでもほかの何ものにも換えがたい楽しみであったにちがいない。
ここで言う日記とは、日々の出来事を綴ったものではなく、極めて抽象的な思索の記録と呼ぶべきものであるが、これは大変示唆に富んでいる文章だと思ったので引用した。
また、ブログ=日記ではないのだけれど、この場合ブログにも当てはまる部分があると思う。つまり、「再読と記述の追加」という要素だ。ブログで特徴的なのは過去記事を読み返し、充実させることが出来る点。ブログは流れていくもので、過去記事、アーカイブをわざわざ見る人はあまりいないが、これこそまさに自己目的化、自分の為だけにでもなればいいのだ。そしてその情報が、検索で来た誰かに役立つ情報になるかもしれない。
ブログ人口は落ち着いては来ているが、それでもこうして日々多くの人々が書き、更新している。「近代以降の社会に生きるわれわれに宿命的なフェティシズム」の表出の一形態なのかもしれない。











