小説と評論の環境問題/新潮2008年2月号
新潮 2008年 02月号 [雑誌]
■ 大討論 ■小説と評論の環境問題/高橋源一郎+田中和生+東浩紀
小説のことは小説家にしかわからないのか?
進行する小説と批評の分断、変動する文学環境をめぐる白熱の議論・前篇
新潮2008年2月号を読んだ。その中の高橋源一郎・田中和生・東浩紀の「小説と評論の環境問題」という鼎談が面白い。
「キャラクターズ」(東浩紀+桜坂洋 新潮07年10月号)に関する話が多くて、それについて東氏本人の見解もあって非常に面白かった。冒頭で高橋源一郎氏と田中和生氏の間であるとされている文学論争?について触れられているが、それを高橋氏が
とばっさり。
■ 大討論 ■小説と評論の環境問題/高橋源一郎+田中和生+東浩紀小説のことは小説家にしかわからないのか?
進行する小説と批評の分断、変動する文学環境をめぐる白熱の議論・前篇
新潮2008年2月号を読んだ。その中の高橋源一郎・田中和生・東浩紀の「小説と評論の環境問題」という鼎談が面白い。
「キャラクターズ」(東浩紀+桜坂洋 新潮07年10月号)に関する話が多くて、それについて東氏本人の見解もあって非常に面白かった。冒頭で高橋源一郎氏と田中和生氏の間であるとされている文学論争?について触れられているが、それを高橋氏が
「相手の屍から有意義な何かが得られるとも思わないので、じつはこの件について改めてお話しする気持ちはありませんでした
とばっさり。
この論争については詳しく知らないので、何とも言えないけれど、ここで読む限りわざわざ論争にする程のことでもないように思える。小説家が「小説のことは小説家にしかわからない」と言うのは当たり前だし、それに何でつっかかるのか、という感じ。
と言っているあなたが一番攻撃的ですよ(笑)
この鼎談を読む限り、田中氏が構ってちゃんに感じられ、読んでてイライラしました。
結局田中氏の苛立ちは、東氏が文学という言葉をニュートラルに使う、という事にまで及ぶようにすら見える。文学にリスペクト払えよと。でも東氏は、別にリスペクトしてないわけではないだろうし、馬鹿にもしているとはとても思えない。ただ、自然主義的文学とキャラクター小説という二つの見方を並列に提示しただけ。その「並列に」ってのが気に入らないのだろうね。「文学」の方が上に来ていないと何がそんなに困るのか。田中氏が「文学」という言葉に何か特別な幻想を抱いているから、としか感じられなかった。別にそれはそれでいいし、だったら他人の文学観に口出さなくてもいいのに。他人に過剰に期待しすぎではないか。他人に過剰に期待をする、それを「甘え」と言うのではなかったっけ。
これはこの鼎談を読んだ限りの、田中氏の印象です、実際には違うかもしれません。それこそ、そういう「キャラクター」を演じている可能性もありますし(笑)
ところで高橋氏が鼎談の中で「キャラクターズ」から引用されているくだりには、私も感銘を受けました。というか、切実な感動すら覚えました。
これは実際に我々が感じていることだと思います。何故、現実にはいないキャラクターの生死にこれほどまで一喜一憂するのか。最近、強くそれを感じた例を挙げると、『テレプシコーラ』の千花ちゃんですね。(これを言うとネタバレですが)あの話が掲載されたときの反響の大きさが彼女の存在の強さを物語っていた。
あと面白かったのは、後半の言論表現の魔術っぽさについて。この魔法というは、高橋氏が言うところの小説的思考―小説を書くという行為の中からしか出てこない、飛躍を含んだ思考、だと思うのですが、魔法を使ったテクスト、東氏はまた小説を書くでしょう。きっと。だから高橋氏は東氏に期待している。
この鼎談は3月号に続くみたい。新潮は文学誌の中でも買い、ですね。読み応えあるなあ。
田中 しかし「権威がある」とか「狭い文学観」という言い方をする時点で、東さんの主張には攻撃性が含まれていますね。
と言っているあなたが一番攻撃的ですよ(笑)
この鼎談を読む限り、田中氏が構ってちゃんに感じられ、読んでてイライラしました。
結局田中氏の苛立ちは、東氏が文学という言葉をニュートラルに使う、という事にまで及ぶようにすら見える。文学にリスペクト払えよと。でも東氏は、別にリスペクトしてないわけではないだろうし、馬鹿にもしているとはとても思えない。ただ、自然主義的文学とキャラクター小説という二つの見方を並列に提示しただけ。その「並列に」ってのが気に入らないのだろうね。「文学」の方が上に来ていないと何がそんなに困るのか。田中氏が「文学」という言葉に何か特別な幻想を抱いているから、としか感じられなかった。別にそれはそれでいいし、だったら他人の文学観に口出さなくてもいいのに。他人に過剰に期待しすぎではないか。他人に過剰に期待をする、それを「甘え」と言うのではなかったっけ。
これはこの鼎談を読んだ限りの、田中氏の印象です、実際には違うかもしれません。それこそ、そういう「キャラクター」を演じている可能性もありますし(笑)
ところで高橋氏が鼎談の中で「キャラクターズ」から引用されているくだりには、私も感銘を受けました。というか、切実な感動すら覚えました。
「小説とは、作家のためでも読者のためでもなく、ましてや編集者や書店員のためでもなく、なによりもまず、現実という単独性の支えを失い、可能世界の海を亡霊のように漂っている「キャラクター」というの名の曖昧な存在の幸せのために書かれるのだということ、そしてそれこそが、文学が人間に自由と寛容をもたらすと言われていることの根拠なのだ。」
これは実際に我々が感じていることだと思います。何故、現実にはいないキャラクターの生死にこれほどまで一喜一憂するのか。最近、強くそれを感じた例を挙げると、『テレプシコーラ』の千花ちゃんですね。(これを言うとネタバレですが)あの話が掲載されたときの反響の大きさが彼女の存在の強さを物語っていた。
あと面白かったのは、後半の言論表現の魔術っぽさについて。この魔法というは、高橋氏が言うところの小説的思考―小説を書くという行為の中からしか出てこない、飛躍を含んだ思考、だと思うのですが、魔法を使ったテクスト、東氏はまた小説を書くでしょう。きっと。だから高橋氏は東氏に期待している。
この鼎談は3月号に続くみたい。新潮は文学誌の中でも買い、ですね。読み応えあるなあ。











